トランスジェンダーとして、初めての交際で抱えた2つの葛藤
これから、初めての交際を振り返り、その時に抱えた2つの葛藤を書いていく。
私が自身の性自認をはっきりと逆の性である男性と認識したのは、幼稚園の年長の頃であった。
その当時は、よく男友達と走り回って遊んだものだ。
そこに馴染んでいたのだが、自分の体だけが違うことに、少し違和感を感じた。
クリスマスプレゼントで、ラジコンを貰った時の大きな喜びは今でも覚えている。
私が初めて交際したのは、11歳の時であった。
相手の方は、同じ児童養護施設で過ごしていた同い年の幼馴染みの子であった。
その子は、いつも笑顔で、その明るさに惹かれた。
自分の気持ちを伝えるのが苦手であったので、11歳の冬に間接的に気持ちを伝えた。
一緒にふざけあっていた最中に、思いきって、その子のことを抱きしめた。
そうしたら、その子も、抱きしめ返してくれた。
それから、交際が始まった。
お互いに暮らしていた部屋が廊下をはさんで離れていたので、よくその子が夜にこちらの部屋に来てくれて、一夜を共に明かし、職員が来る前の早朝に帰って行く日々が続いた。
その時は、とても幸せであった。
しかし、そんな生活を送っていて、自分の中である葛藤が沸き起こってきた。
「この子のことを幸せにできないのに、俺はいったい何をしているんだ。」と。
自分の行為に、罪悪感を持ち、自分自身を責めた。
これが、1つ目に抱えた葛藤である。
次第に付き合うことが、何の意味もなさないように思えてきた。
「付き合うのではなく、友達のままでも良かったのではないのか。」と、真剣に考えた。
これが、2つ目に抱えた葛藤である。
中学に入学した年の秋に、秋田に転校をした。
その時を境に、その子とは疎遠になった。
その子に、最後に今までのことを謝罪し、これからの幸せを願う手紙を書いたことが今でも切ない記憶として残っている。
しかし、その子と出会えて良かったと心の底から思う。
もう、その子とこれから先も会うことがないだろうけど、その子が今頃幸せに暮らしていたら、私にとっても、幸せである。
児童養護施設で見つけた2つの課題
生まれてから、直ぐに両親が離婚し、12歳まで児童養護施設で過ごした。
そこでの生活や、現場で見つけた2つの課題を書いていく。
私が過ごした児童養護施設は、カトリックに属していたので、小学校の6年間は毎週決まって日曜日に教会に行き、ミサを受けた。
午後からは、教会学校が開かれ、それぞれの学年ごとに集まり、キリストの絵を描いたり、十字架のお菓子を作ったり、お祈りを唱えたりして過ごした。
また、日曜日の朝には毎回決まってパンが出された。
施設では、季節ごとに様々な催しが行われた。
特に記憶に残っているのは、夏のキャンプと冬のクリスマス会だ。
休日には、公園などへお出かけに連れて行ってもらったものだ。
良い記憶もある一方、苦しく感じた記憶も残っている。
それは、平成が始まってまだ何年かしか経っておらず、昭和の香りが残っていた為なのか、職員による暴力が行われていた事だ。
例えば、小学校低学年のキャンプの時に、友人と物の取り合いをしてしまった。
その時に、50代程の男性の職員が来て頭を捕まれ、川に無理やり顔を入れられた。
その時は、水が口の中に入ってきて、息ができなくて、幼いながらに窒息するのではないかと思った程だ。
また、別の職員からは顔を平手で叩かれた事がある。
父からも、勉強ができないと体を叩かれたり、「お前は俺の子供じゃない」などと、暴言を吐かれた。
正直、誰を信じて良いのか分からず、大人の顔色をうかがっては、怒っていないだろうかと恐怖心に襲われた。
大人になった今でも、他者の顔色が気になったり、自分の意見が言えなかったり、強い口調で言われると、焦ったりテンパってしまう事がある。
そこで、共に過ごした幼馴染みの親友は、そこで負った心の傷により、愛着障害という病気になり、大学を中退し、まともに働けず、生活保護を受けて暮らさざるおえない状況に陥っている。
そこで、1つ目の課題を書く。
1つ目の課題は、親に会えない寂しさや、大人からの暴力や、暴言により深く心に傷がつき、自分を見失いグレてしまう子供が沢山居た事だ。
具体的には煙草を吸ったり、学校をサボったり、喧嘩に明け暮れたりなどである。
私も、自分の存在価値を否定し、「もう、どうにでもなれ」という気持ちになっていった。
2つ目に見つけた課題は、施設に居る子供たちのほとんどが、経済的な理由で大学や、専門学校への進学を諦め、直ぐに就職するという選択肢しか無かった事である。
仮に大学に進学できたとしても、そこでも経済的な理由で中退せざるおえない事がほとんどだ。
頑張る動機付けや、目標が無ければ自然と勉強にも力が入らず、学力レベルの低い子供を沢山見た。
今は、どうなっているのか分からない。
そして、その当時の大人たちを批判する気持ちも無い。
これから、どのように未来を変えていけるのかが、重要である。
私はこの課題から目を逸らさずに、向き合っていく。
ボランティア団体を設立し、そのような状況に置かれた子供たちを支援する事が唯一、私にできる事であると考える。
仕事で大切だと思った8つのこと
これまでの仕事を通して、大切だと思った8つのことを書いていく。
ここで、仕事で大切だと思った1つ目のことを書く。
どんな事でも確認をすることだ。
想定外の事は必ず例外としておきるからだ。
そして、自分の先入観を仕事に入れない事だ。
過去に取引先の代表者の自宅に送っていたつもりのFAXが、すでに退職した方の自宅に誤送信されていた事があった。
会社のデータに登録されていたFAX番号だったので、「間違いは無いだろう。」と、疑うことを一切しなかった。
そのことが、ミスに繋がった。
「そのFAX番号に送っても大丈夫か。」など、事前にしっかり確認するべきであったと、この経験から強く思った。
2つ目に仕事で大切だと思ったことは言いにくい事でも、しっかり伝えることだ。
よく上司で、相手の話している内容が1つも聞こえない事がある。自分の耳が悪いのかと思った程だ。
毎回、聞こえず、それでも「聞こえない」とはとてもではないが言えず、返事だけ返していた。
そうしていると、「話を聞かない人だ」と、「さっき、言ったではないか」とその上司から叱責された。
その経験から、言いにくい事でもはっきり伝えなくてはいけないと強く思った。
本当に聞こえない時は「聞こえません。」と、その上司に伝える事で、相手も理解してくれるようになった。
3つ目に仕事で大切だと思ったことは、頼まれたことをメモして残しておく事だ。
なぜなら、覚えているつもりでも、忘れていた事がいくつかあったからだ。
人はいろんな事を同時にしていたり、急いでいると、必ず抜けが出ることに気がついた。
つまり、頭で処理できる能力のキャパを越えてしまうのだ。
4つ目に仕事で大切だと思ったことは、主語と述語のしっかり入っている、相手に分かりやすい文章で伝えることだ。
「そこの、どかしといて」と言われた場合、そことは何なのかという疑問から始まる。
そして、何を使ってどかすのかも分からない。
相手の上司は近くにある乗り物を使ってそれをどかして欲しかったのだらしい。
はっきりとその乗り物で、特定の物をどこまでどかしたら良いのかを、最初から伝えてもらえると分かりやすかった。
性格的に、細かい説明をするのが億劫でそのような話し方をする人もいると思う。
こちらからも、「何を」、「どこに」、「どのように」、「どこまで」など質問する技量も大切になると思った。
5つ目に仕事で大切だと思ったことは、取引先や、社内の人と、コミュニケーションを取る事だ。
取引先とのコミュニケーションを重視する事で、実際に売上や結果に繋がったからだ。
上司や、社内の人とも、普段からコミュニケーションを取る事で、気持ちの行き違いなどの誤解を減らす事ができると考えるからだ。
6つ目に仕事で大切だと思ったことは、社内の人や、関わる全ての人に感謝の気持ちを持つことだ。
パワハラや、高圧的な態度で接してくる上司は実際に、存在する。
理不尽なことを言われ、腹が立つこともあるだろう。
しかし、その感情に支配されてはあまりにも、もったいないと思った。
怒りは、それだけでエネルギーを使い、上司に対する反発心から視野を狭くさせると考える。
「見返したい」くらいに悔しいのならば、目の前の業務に必死で取り組む事が最も重要であると考える。
私も過去に上司から、「そんなに時間かかる?」や、「仕事の優先順位ができていない。」と、怒鳴られ腹が立ったことがある。
しかし、冷静に考えると厳しく言われた言葉の中には、私が成長するためのヒントが沢山あった。
悔しい事が沢山あったとしても、相手から、いただいた恩があるのならば、その感謝の気持ちを大切にし続けるべきだ。
良いところを沢山吸収し、それを生かしていくことも、大切だと考える。
ここで、上に立つ全ての人に、一つ言っておきたい事がある。
誰しも、最初から完璧にできる者などいない。
最初は失敗しながら、少しずつ、成長へのステップを踏んでいくのだ。
だから、どんなにできない新入社員や、中途社員が居たとしても、腹を立てて怒鳴るのは止めるべきである。
相手に恐怖心をも与えかねないからである。
むしろ、アドバイスをしたり、温かく見守るべきである。
自分自身が、新入社員あるいは中途社員になった当初の事をもう一度思い出してもらいたい。
7つ目に仕事で大切だと思ったことは、自分の意見や、感謝の気持ちをしっかりと言葉で伝えることだ。
やはり、どんなに頭の中で考えていたり、心の中で思っていたりする事でも、相手に言葉で伝えないと、正確に伝わらないものがある。
むしろ、そんな相手に不信感を抱く人も居るだろう。
なぜならば、その人の考えていることが、何一つ分からないのであれば、相手に対して不安な気持ちになるからである。
8つ目に仕事で大切だと思ったことは、時間に余裕を持って出勤する事だ。
これは、とても大きなポイントであると考える。
遅刻ギリギリの時間で出勤して来るのと、時間に余裕を持って出勤して来るのとでは印象も違ってくるからだ。
私自身、朝起きるのが苦手で以前は、遅刻ギリギリに出勤していた。
しかし、それを直し、出勤時刻の10分前には現場に入るようにしたら、周りの人の反応も、変わってきた事実がある。
それぞれの職場で、どれくらい前には現場に入らないといけないという、時間の範囲は異なるだろう。
いくら仕事ができても、ルールなど一つの事ができていなければ、それがその人の評価になってしまうと考える。
逆に、それができていれば、周りの人からの信頼も高まり、何より時間に余裕を持って行動すると心にも余裕ができてくる。
自分の考えが正しいと正当化してしまうと、時に間違った事をも押し通しかねない。
そんな危険さがある。
一度、立ち止まって「本当に大丈夫であろうか?」と自分に問いかける事も大切なことであると考える。
自分が正しいと思っている訳ではない。
だが、主観に偏った文章を時に書くこともあるかもしれない。
何度も何度も、自分に疑問を投げ掛ける過程を大切にし、これからも文章を書き続けていく。
大学を働きながら自力で卒業した3つの方法
これから私が大学を働きながら自力で卒業した3つの方法を話す。
その大学は都内にあり、箱根駅伝に何回も出場している中堅私立大学だ。
家が父子家庭で経済的に余裕が無かったので、高校を卒業後、2年間は家業を手伝い、その後、働きながら大学に行く事を決めた。
1つ目の方法は、働き先を見つけた事だ。
20歳になる年の2月に関東に上京して、夜勤の食品工場でアルバイトとして働き始めた。
時給は950円であった。
寮も完備されている所を選んだ。
2つ目の方法は、計画的に資金を貯めた事だ。
夕方の16時から働き始め、深夜1時が定時であった。
最初の頃は深夜2時頃に帰る事が多かった。
それから、3ヵ月して新工場に移った。
設立当初という事もあり、16時に出勤して、次の日の昼の11時に帰る日が3ヵ月程続いた。
その時は、頭がぼんやりとして眠気との戦いであった。
その後は、朝方の5時から7時までの間には帰れるようになった。
そんな風に一年は過ぎ去り、貯金も100万円を越えていた。
センター試験を関東で受け、先程の大学に合格し、貯めた資金を全て入学金と授業料に充てた。
3つ目の方法は、意志を強く持つ事だ。
それから、大学と工場を行き来する生活が始まった。
職場の上司の理解もあり、平日の2日間を指定休にさせていただいた。
つまり、シフトによる定めの無い休みから固定休になった訳である。
その2日間を語学や必須科目のある曜日に充てた。最初の2年間は、しっかり眠れたのは週に2日だけであった。
その他は通学に2時間半程掛かっていたので、その時間に眠った。
講義中にうっかり眠ってしまうこともあった。
それにしても、断片的な眠りなので、疲れが取れず、毎日気を失いそうな眠気に襲われた。
1年目、毎日小テストがあった語学の単位を落としてしまった。
留年の危機もあったので、大学を辞めようとした事が何度もあった。
しかし、そんな状況でも、「まだ、やれるんだ。終わってたまるか。」と、自分に強く言い聞かせた。
勉強をし直し、2年目に何とかその単位を取り返す事ができた。
それからは、順調に単位を取り、4年目はほとんど大学に行かなくても良くなった。
上司の励ましや、同じ境遇にある人の希望になりたいという気持ち、そして児童養護施設で育った過去の経験が私を支えた。
苦しくても立ち向かって、それを乗り越えて達成できて初めて同じ境遇に置かれる人達に対する説得力が生まれるのだと考える。
働きながらでも、大学生活は長期休みも入れると割と時間があった。
そのため、例え必須単位を1年目に落としたとしても、2年目に十分挽回が可能だ。
授業料の納入も、年に2回の分割にしたら、そこまで生活が苦しくなる事はなかった。
私が伝えたいことは、どんなに困窮の中にあっても、そのせいで夢を諦めないで欲しいという事だ。
意志があれば、夢を叶えられると信じる気持ちが大切だと痛感したからだ。